総会報告

 2019年 第43回定期総会報告
    ★来賓挨拶 亀田進一さん(大山乳業農業協同組合常務)
★議事  前年度報告・会計報告・新年度予定・新年度予算案・新年度役員・常任委員全て承認されました。
★生産者のお話 酪農家 田中義博さんのお話   
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来賓挨拶 
 
亀田進一さん
(大山乳業農協常務)
 43回総会開催、誠におめでとうございます。
 43年の歴史、それぞれの時代に食の安全・環境に対し的確な判断をされ、課題に対する素晴らしい行動と、情報を皆さん消費者や我々生産者サイドにもお知らせ頂きました。
 本当に長い間活動を続けてこられた関係者の皆さまに敬意を表したい、本当にご苦労様でした。
大山乳業としてお話させて頂きたいのは、 昭和21年創立以来大切にしてきた3つの柱

1つ目は高品質の生乳生産製品。
2つ目は生乳を自ら加工して販売する。
3つ目は自給飼料。
 自分で栽培して出来る限り循環型酪農といいますか、環境に負荷を与えないような酪農を目指すと言う事です。
 先月4月から私共独自の「白バラ認証制度」というものを本格稼働しております。
これは、牧場の多岐にわたる管理、例えば、搾ったお乳の低温管理、牛に与える餌や薬品、それから防疫・衛生等に関して、3年かけて酪農家の方ともご議論をしてきた認証制度です。
年に2回、外部の県の方に各牧場の審査をしていただきまして、認証牧場に指定していきます。全て公定管理できちんとしていこうという趣旨でございます。

 それと一昨年、搾ったお乳を工場に行くまでの間管理する(牧場酪農家の)バルククーラーに自記温度計を全牧場に設置(都府県では初めて)しまして、ずっと温度を計測しています。
こうした取り組みで、もし工場に出荷するまでに変化があっても、確実に対処できるようになりました。
 工場の方はFSSC22000(食品安全管理システム)で、高品質な製品を確実に安心安全にお届けする為、整備の最中であります。
 皆さんのご利用は酪農家の力になります。さらにご利用して頂き広めていただければありがたいと思います。最後になりましたけれど、未来ネットさんが今後50年100年と続きますようご祈念したいと思います。
本日はおめでとうございました。
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酪農家のお話 田中義博さん

《 私の宝物 》
総会おめでとうございます。私達、鳥取の酪農家が搾った牛乳を飲んで頂きまして、生産者を代表して、お礼申し上げます。  鳥取県のほぼ中央で牧場経営をやっております。山ばかりで、過疎地という言葉の発祥となるような非常に厳しい状況の中で、「良い牛乳を搾る」という必死の思いで70年間続けてきました。
ここに私ども家族が写っています。真中が、私、田中義博。経営内容は、仔牛を産んだ事のある経産牛60頭、未経産牛といってお腹に子どもがいたり、仔牛だったりが30頭です。うち20頭は県が経営をしている放牧場で1年間過ごし、お腹の子が7、8ヶ月で帰ってきます。1日の乳量は約50頭から搾って1700kg、1Lパック×1700本分を毎日搾乳しております。私は昭和24年2月8日生まれ。俗に言う古希を2月に迎えて70歳です。隣に女房がいます。左のにっこりしているのが長男の嫁。二人とも優しいです。こういう事は2回くらい言っとかないと通じませんので・・・、非常に優しいです。(笑)
この写真を撮る時に、長男はトウモロコシの種の蒔きつけの真最中で、次男はエサ作りや機械の修理をやってくれていました。この2人が加わって牧場経営をしております。
▼孫3人の「この牛はどうなるんだろう?」

下の3人の子どもは孫と内孫です。非常に腕白でして。仔牛が産まれるとくじ引きをして、競争して飼っていたわけです。
オス仔牛も産まれるわけで、1週間位したら肥育する農協さんの職員さんが迎えに来るんですが、最初のうちは「おじちゃんが飼ってね」なんて言ってましたけど。ある時「この牛はどうなるんだろう」と3人が話していた時に、思わず「こいつら肉になるんじゃろ」と言ったところ、子どもたち大変なショックを受けて、暫く口を聞いてくれなくて。どう言い訳しても「この牛はいつ肉になるん?」とそればっかりで、しまいには「なら、乳搾ってる牛はどうなるの?トラックに乗って行く牛はどうなるの?」という事を言い始めてね。
最近この事について、すがるように聞いてくるもんで、お寺さんに行って孫がこういった事を聞くと話すと「それは、生まれてすぐから牛と一緒に大きくなったから、そういう発想が出てくるのだろう」と。「寺の坊主としてどう言ったらいいか分からないが、スイカやメロンも同じ事。人間は平気で包丁で半分に切ったりするけれども、果物でも本当は自由に枯れて種を落として、命を全うしたい筈なのに、あらゆる生物がそういう形で食われていく。たまたま人間がそれを利用しているだけなんだと。だから、何でも食べる時には感謝を忘れたらいけんよとやんわり話されたらいどうですか?」と言われたもんでそう言ったんですけど、3人組から「じゃけん、それはウソだ。勝手にそんな事を言う。」と言って、大不満を言われ、大変な思いをしております。
▼趣味は渓流釣りとオオスズメバチ

若い時から渓流釣りをやっていて、山の奥の川まで行ってヤマメやイワナを釣るのがものすごく好きです。
私の携帯には鳥取の端から、南の外れまで、1000人位の仲間、友達がいます。
もう一つの趣味はオオスズメバチを獲ることです。よくテレビで、ビニールをハチのシッポに付けて飛ばして、巣があそこだなってのを見られた事があると思うんですけれども、それを仲間とやるんです。
何度か刺されましたが、ハチは害虫が主食なんで、牧草にも害虫が少ないという益をもたらしてくれます。5月になったら女王蜂が残っていて、それが1000匹5000匹になり、10月位までかかって大きな巣を作ります。
女房も最初は怖いとかなんとか言いよりましたけど、それを見つけたときに、今では真っ先に巣を破ってハチの子を炊いたり、仲良くなってしまいました。


「日本一老けない牛乳は鳥取にあり」の記事に反響

今回、何年ぶりかで、乳代を上げて貰いました。農家もここ10年位前は600戸位あったんですけど、今は120戸位、酪農家が減っています。次々大きな牧場を始めるという声もあるけど、これも問題があって、大きくすると組合の世話ではなく、自分らで餌を探すとなると、難しくなる。できれば50頭60頭位で頑張れれば良いのですけど、中々これも難しい。
全国版の週刊誌に「日本一老けない牛乳は鳥取にあり!」と書いて貰ったら、反響はものすごいものがあります。ただ、農家としては同じことの繰り返しで、牛を大事にして、無理をさせずに牛と一緒にっていう思いは全然変わっていないのです。でも「週刊誌で見ましたよ」っていうのを聞くのは気持ちのいいものでこれには感謝もしております。
▼「私達はあなたの乳牛です・・・」

これはまだ私の若かった頃の農業高校時代。ここで牛の健康、牛の管理という講習を受けました。まず最初に「牛達が皆さんをどう見てるのか、どう思っていると思うか」と講師の先生に聞かれました。ふっと聞かれて、誰もが返事に困っている状態で私も返事をすることが出来ませんでした。その時すっと紙きれに書かれたこの文章が回ってきました。詩が書いてあり、キーニイという獣医さんが書かれたものでした。その詩を読ませて頂きます。
「私達はあなたの乳牛です。私達はあなたの下さるものを食べ、飲ませてくれるものを飲み、住まわせて下さる所で暮らします。良い牛になるのも、悪い牛になるのも、丈夫になるのも、弱くなるのも、気持ちよく暮らせるのも、不愉快になるのも、私達の運命はあなた方酪農家任せなのです」こういう文章でした。
酪農を始めて50年が過ぎましたが、まさにこの通り、今でも朝一番に牛舎にいき、オーイと牛たちに声をかけます。フリーバーンという牛舎なので、牛は勝手に寝たり起きたりして暮しておりますけど、とにかく一斉に私を見ます。そしてオーイと言いながら牛舎の中を健康でないのはいないか観察するんですけど、とにかく目を離しません。絶対に目を離さずに、牛は本当に可愛く目で追ってきます。グルッと牛舎を見まわっているうちに息子が出てきて、女房もやってきて、搾乳を始めます。
▼忘れられないチェンキー(17歳13産)
  ここに今でも絶対に忘れることのできない、大事な大事な牛が映っています。これが本当は真黒い牛だったんですけれど、17歳にもなって真っ白になってしまっています。もう大分前の牛なんですけど、よく働いてくれて、普通にまあ10歳も飼ったら更新しないとどうしても乳質が悪くなったりする。いくら大切な牛でも、どれだけ可愛い牛でもいつまでも飼ってやる訳にはいきません。病気で屠場に行くか、元気でも家畜市場に出て、肉になる運命であります。
私の所でも牛が市に行く時は、1日非常に憂鬱な気持ちで過ごす事になります。女房は牛が市に行く日は牛舎に来ません。自分が名前を付けて、手塩にかけ育てた牛が、肉になるのが分かってトラックに乗って行きます。年に12〜13頭送り出します。この話をすると、いつも声が詰まってしまって、話が出来なくなるのですけれども。トラックに乗る時に「生まれ変わって帰ってこいよ」と、声掛けをしてやります。去年も13頭同じ思いで送り出しました。この事さえ無かったら酪農は万々歳と思います。
トラックに乗る時手を出しますが、牛はいつもなら寄って来てくれるのに、絶対来ません。目をそらします。そういう専門のトラックなんで、臭うらしくて、どの牛も気がたってしまって、なかなか掴ませてくれない。こういう思いをして積む時は非常に情けなくてね。その日から3日位は女房と話しせんくらい。それぞれの牛に色々思いが有るので、まあ、因果な商売だなと思います。




▼仲間と建てた堆肥舎と牛舎

 50年余りの酪農人生の中で多くの宝物がありました。先ほどのチェンキーもそうでしたが、これから見て貰う牛舎・堆肥舎は本当に宝物以上のものがあります。建設には仲良しの資格を持った大工さんが3人いますけれども、あとの友人・知人16人の同志はまったくの素人で、ものすごく大きな堆肥舎と牛舎を建てようという事になりました。
丸い柱が上に見えると思いますが、全部電柱です。廃品置き場に山ほどあって、よく知っている仲間たちが、1本100円とか300円という値段で1000本近く集めてくれたんです。それを牛舎予定地のあちこちの隅に置いておき、大工さんに墨を入れて貰って、器用な仲間がいっぱいいるので、見よう見まねで溝を切る事など、もくもくとやってもらいました。乳を搾るパーラーも、仲間内で手伝ってもらって建てた所です。
本当に大変でした。掘っていたら遺跡が出て、行政から待ったがかかり、「ここは遺跡が出るので出来ませんよー」。もう、建てかけてるのに。そこで1ヶ月位待たされて、急きょ表面をちょっと削っただけだからいいんじゃないかとなって、今の牛舎が建ちました。大きな建物の屋根を13人が上がって、トタンも全部打って、わたしは肝が無いのでよう上がらんで、下から掛け声掛けよった。それで、いろんな人に手伝って貰って完成した堆肥舎・牛舎に電気はなかなか付かなかったんですよね。女房も料理方で2年以上かかったんですが、皆さん手弁当で、日当無しで。
これがね、右側に屋根が見えるのが堆肥舎と言って、牛の糞を入れる所なんです。それからこちらに写っとる所が牛舎で、ここが、1500平米あります。こんなの1000平米以上のもん勝手に建てるなんてまかりならんと、県から、自分の子どもみたいな若いのがきてガンガン言ったもんで腹が立つしね、どうしようかと思ったけど、ま、何も言えずにこらえておりました。結局「大きさは大体でわからへん」みたいなことで県の認可を無事パスしました。
余談ですけど、完成するまでに祝い酒が1000本以上ですか、それから、日本酒はうちが2000本は買ってます。合計すると簡単に3000本ですよね。それを飲むも飲んだりですよ。手弁当という言葉がありますけども、辞書を引いてみると、報酬をあてにしない奉仕をすることとありました。全くその通りでね。
 今はこの牛舎で、牛たちものんびりっていいますか、頑張ってくれております。財布はあんまりのんびりでないですけども牛舎は建ってもう12年になります。
▼農業高校3年生で「これは、もう牛を飼うしかない」

これともう一つ、絶対忘れることができないことが、私の人生の中にありました。実は、農業高校の三年生の時に北海道実習があって、鶴居村の下雪裡という所に行きました。その時に、うちには牛が2頭おったぐらいでした。北海道に行って、酪農を見て、1ヶ月近くおりましたら、もう、「これはもう牛飼うしかない」と単純にそれだけ考えて帰りました。
帰って、卒業前になって担任に、「僕は牛を飼う」と宣言しました。でも銭金ないと話(ワ)にもならんと言われ、調べたら、丁度その頃から農業貢献資金というのが出始めました。無利子で50万とか100万とかが出て、でも保証人がやっぱりいるんです。私のところは開拓、終戦後できた集落なので、保証人ではいけんぞという話でした。親にも内緒で、多分大丈夫という話だったんで、卒業式の日に卒業証書を持って農協の金融に行きました。今思うとぞっとしますが、校長が「心意気を見せ」と言ったんです。
 そしたら、金融の担保係が、「校長から電話貰ったけどちょっと来いや」って話で、詰所へ行って、「未成年だけ、親の印鑑証明が要って、あんたのお父さんが地元の田中さんっていう大きな農家から出てるので本家に頼みに行ったらどうか」と言われました。 
僕が払えん場合は、代わりに払って貰わないといけないけど、「保証人になって」というのは、すごい話ですよね。でもそれは当たり前だと思っていたもんですから、証書の入った筒を持って自転車で行きました。私の伯父ですが、「わかった。頑張れ」って言いました。あれが無かったら今ここで酪農をしとらんと思うんです。ありがたいところに良い出会いがあったと思いました。
▼大山乳業の立ちあげ

昨年亡くなった組合長の幅田さんと大山乳業って工場を建てた後、非常に資金的にも大変でした。丁度、私監事をしてましたし、県からも中央会っていう農協の上の組織からも「これはあかんぞ」って厳しい時がありました。そういう時も幅田組合長は「何とかして頑張る」と「もし頑張れん時は」と声を詰まらせてました。必死の思いで乗り切って、その中でどうしたら、100年も200年も続く、大きな企業になれるかを考えた結果、徳川八代将軍の名君家訓を見つけました。これを実行する事だと思っています。
▼短歌を一首

私は川柳や短歌をやります。未来ネットさんの総会へ行くと決まった時、なんとか一つ白バラさんと我々と未来ネットさんを繋ぐものを詠めないかとずーっと考えました。
考えて、考えて、乳を搾っている時も考えて、「何か書くものないかと」言うと、女房が「お父さんがまた始まった」と言うんですが、やっとできました。ご披露します。

白バラと 絆深めてこの先も 手を携えて 未来永劫

以上、ご清聴ありがとうございました。
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